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城1563年〜1584年愛知県小牧市

安土以前

小牧山城と、織田信長の政治的風景の変遷

小牧山城、見落とされがちな岐阜という段階、そして織田信長の政治的な「城の建築」の変化をめぐる、現地に根ざした歴史エッセイ。

2026年9月10日ノア・シュスター · 13 分で読めます

小牧山山頂の城郭風の小牧山歴史館と、石段に立つ筆者の家族
愛知県小牧市、小牧山山頂の小牧山歴史館。現在の城郭風の建物は近代の資料館であり、織田信長の時代の建物を復元したものではない。撮影:ノア・シュスター(2026年)。

込み入った山への、家族のおでかけ

家族と車で小牧山に着いたとき、その訪問にこれといった大きな目的はなかった。

車を降りて、いちばん下の息子を抱っこ紐で胸に固定したのを覚えている。妻ともうひとりの息子と一緒に、山を登り始めた。それまでにもいくつか城を訪れていて、これもまた気軽な家族のおでかけのはずだった。丘を登り、あたりを見て、眺めを楽しみ、家に帰る。

当時の私は、織田信長の歴史よりも、その名前のほうをよく知っていた。その年のはじめ、両親と熱田神宮を訪れたとき、神宮にまつわる話の中に彼の名を見つけた。信長は、私が訪れる場所のあちこちに顔をのぞかせ始めていた。だが彼の生涯が、中部日本の風景にどれほど深く刻み込まれているのかは、まだ分かっていなかった。

小牧山に着いたとき、16世紀の城の設計のことなど考えてもいなかった。それよりも急な登り坂、とりわけ胸に赤ん坊を抱えての登りのほうが、目の前の現実だった。

だが、そのありふれた家族のおでかけの足元には、驚くほど込み入った史跡があった。小牧山は、まず美濃攻略を進める信長の新たな政治拠点となり、のちには小牧・長久手の戦いで徳川家康の堅固な本陣となった。近年の考古学は、信長がここに築いた城が、その短い寿命から想像されていたよりもはるかに野心的なものだったことを明らかにしている。

最初の訪問のとき、私はそのほとんどを理解していなかった。

振り返れば、だからこそ小牧山は始まりにふさわしい場所なのだ。私は城跡を「見て」いた。まだ、城跡を「読む」方法を知らなかった。

美濃へ向けられた城

1563年までに、信長の戦略的な立場は、支配の初期の不安定な時期から劇的に変わっていた。

1555年に居城を那古野から清洲へ移し、1560年には桶狭間で今川義元を破り、三河の徳川家康と同盟を結び、尾張国内での立場をほぼ固めていた。こうして彼の関心は、しだいに北の美濃へと向かうことになる。美濃では、斎藤氏がなお堅固な山城・稲葉山城を押さえていた。

1563年、信長は清洲を離れ、小牧山に居を移した。

この決断が重要なのは、小牧山が、ただ受け継いだだけの拠点ではなかったからだ。小牧市の保存整備に関する調査によれば、小牧山城は、信長が先の城主から引き継いだのではなく、自ら築いた最初の城とされている。山は、美濃との戦いのさなかに構想された新たな拠点の中心となった。

立地は戦略的に理にかなっていた。小牧は清洲よりも北にあり、攻め取ろうとする領域に近い。だが築城の規模を見れば、彼が一時的な前線基地を設ける以上のことをしていたのは明らかだ。

山の南には、計画的な城下町がつくられた。発掘調査では、整然とした排水の仕組みや、武家屋敷と考えられる大きな屋敷地が確認されている。出土した陶磁器などの遺物は、信長の在城中、城のまわりに人々の暮らしがあったことを示している。町は城のおまけではなかった。城を中心に築かれつつあった政治的な風景の一部だったのである。

つまり信長は、ただ兵を美濃に近づけていたのではない。政治の中心そのものを移していたのだ。城、家臣の屋敷、商人や職人、道、そして日々の暮らしを支える仕組みが、新たな権力の中心のまわりに組み立てられていった。

まだ比較的早い時期にもかかわらず、小牧山は、城が丘を守る以上のことができると示している。城は、その下に広がる世界を組織することができたのだ。

山を読む

今、山頂に建つ建物は、初めて訪れる人を戸惑わせやすい。日本の城の天守のように見えるが、信長の時代の建物が残ったものでも、復元したものでもない。現在の小牧山歴史館は、近代に建てられた城郭風の建物である。

本当の歴史の証拠は、その下と、そのまわりにある。

山頂部の発掘では、主郭を取り囲む幾段もの石垣が見つかっている。また、自然の地形を意図的に削り、造り変えた跡も確認された。山頂は、最小限の手を加えて利用されたのではなく、計画された設計にもとづいて造成されていたのである。

とはいえ、信長が小牧で石垣の城を発明したというわけではない。日本の城は彼以前から石を用いていたし、石垣の発展は一人の人物の功績でも、突然の技術革新でもなかった。

小牧山が示しているのは、信長の経歴の早い段階で、主郭のまわりに石がきわめて意図的に用いられていたということだ。

築城の過程は、個々の人々の関わりの跡まで残している。山頂から見つかった石のひとつには、墨で「佐久間」と書かれていた。小牧市によれば、これは城の石垣に残る墨書として、日本で確認されている最古の例だという。研究者は、信長の家臣・佐久間信盛にゆかりのある集団が築城に関わっていたことを示すものではないかと考えている。

こうした発見の意味は見過ごされやすい。石垣は、名もなきものに見えがちだ。墨書は、築城をふたたび人間の営みへと引き戻す。誰かが石を切り出し、運び、人手を束ね、まわりの土を整え、その石をどこに据えるかを決めなければならなかったのだ。

大手道も、もうひとつの手がかりになる。小牧山の大手道は、山の南の麓からかなりの距離をまっすぐに登り、山頂に近づくと折れ曲がって複雑になる。発掘によって、この道をつくるために自然の地形が大きく改変されていたことが確かめられている。

この道は、十年以上のちに築かれた安土城と比べると、とりわけ興味深い。安土城では、あの有名な大手道が、正面の入口から幅広く、目を見張るほどまっすぐに登り、主要な曲輪へと続いていく。

その類似は、示唆に富んでいる。

だが、似ているというだけで、小牧山が安土城の直接の設計図だったと証明されるわけではない。それこそが、この史跡を解釈するうえでの中心的な問題になる。

小牧山が安土につながるなら、なぜ信長は去ったのか

小牧山を安土城の「原型」と呼びたくなる気持ちはよく分かる。その言葉が魅力的なのは、いくつもの特徴がそれを裏づけているように見えるからだ。山頂の本格的な石垣、整えられた大手道、計画的な城下町、そして政治的な居所と軍事的権威の一体化。

しかし、明らかな反論がある。

信長は小牧から安土へ移ったのではない。小牧から岐阜へ移ったのだ。

両者のあいだに、岐阜で過ごしたほぼ十年があるのなら、小牧山から安土へと一足飛びに結ぶ城の発展論は、不完全だということになる。

小牧山城の寿命の短さという問題もある。信長がこの城にいたのは、わずか四年ほどだった。1567年、斎藤龍興を破って稲葉山城を手に入れると、新たな拠点を岐阜と名づけ、小牧山城は使われなくなった。

一見すると、四年という期間は小牧が失敗だったように思わせるかもしれない。だが、逆の解釈のほうが説得力がある。

小牧は、美濃攻略のために置かれた拠点だった。美濃を攻め取ったとき、清洲から移る理由となっていた戦略上の課題そのものが変わった。信長は、手に入れたばかりの領域の背後から治め続けるのではなく、その領域の中へ本拠を移すことができるようになったのである。

小牧山が捨てられたのは、必ずしも失敗したからではない。信長の政治的な地理が、小牧山を越えて先へ進んだからだ。

彼の城は、彼の拡大についていったのである。

見落とされた中間点:岐阜

岐阜は、小牧山が直接安土を生んだという単純な主張を複雑にする。だが同時に、より大きな発展の議論を強めてもくれる。

小牧山とは違い、岐阜はすべてを信長がつくり上げたわけではない。稲葉山はすでに先の支配者たち、とりわけ斎藤氏によって整えられており、近年の発掘調査では、信長が受け継いだ城の一部に、それ以前の造作が取り込まれていたことが分かっている。1567年以降に彼が行ったのは、既存の政治の中心を手直しし、拡張し、新たに意味づけし直すことだった。

発掘では、山頂部に関わる信長時代の石垣が見つかっており、天守の発展に関わる手がかりも含まれている。金華山の麓では、信長は手の込んだ居館の空間もつくり上げた。発掘によって、庭園、装飾的な建物、金箔瓦が見つかっている。文献には、信長がそこで重要な客人を迎え、館を案内し、芸能を見せ、食事や贈り物でもてなしたことが記されている。城は単なる軍事拠点としてではなく、政治的権威を演出する舞台として機能していたのである。

安土を考えるうえで、この発展は重要な意味を持つ。

小牧では、信長が新たな本拠を築き、山を造り変え、その下に計画的な町をつくり、本格的な石垣を用い、主郭への道筋を整えていく姿が見える。

岐阜では、そうした考え方が、より洗練された政治的環境の中で働いていた。建築、景観、庭園、装飾、そしてもてなしが、ますます権威を語るようになっていった。

そして、安土が来る。

小牧、岐阜、安土

信長が安土城の築城を始めたのは1576年のことだ。そのころには、1563年の信長と1570年代後半の信長との違いは、とてつもなく大きくなっていた。

小牧山を築いたのは、美濃攻略を準備する尾張の一大名だった。岐阜から治めた人物は、すでに京都に入り、日本で最も強大な政治家のひとりとなっていた。安土を築いた人物は、十三年前に小牧で築城が始まったころには想像もできなかったほどの領地、資源、職人、そして政治的権威を手にしていた。

彼の城が変わったのは、彼の立場が変わったからである。

だからこそ、この発展を「小牧山は小さな安土城だった」という主張に還元すべきではない。より有用なモデルは、次のようなものだ。

  1. 小牧山:試み

    新たに築かれた本拠、計画的な町、意図的な山頂の造成、本格的な石垣、そして城主の主郭へと至る整えられた道。

  2. 岐阜:洗練と拡張

    受け継いだ中世の山城を、建築、居館、演出、もてなし、そして壮大な造営がますます一体となって働く政治の中心へと変えた。

  3. 安土:到達点

    そうした政治的・建築的な構想を、類を見ない規模で表現できるだけの資源を手にしたときに、目的をもって築かれた本拠。

これは、固定された進化の階段ではない。信長は、ひとつの城を次の城へと単純に写し取ったわけではない。地形も、敵も、政治状況も、資源も異なれば、求められる答えも違った。

これらの城をつなぐのは、同じ建築ではない。

城に何ができるのかという、広がり続ける構想である。

同じ山の、二つ目の城

小牧山の物語は、1567年に信長が去ったところで終わったわけではない。

十七年のあいだ、小牧山は城として使われなかった。やがて1582年、本能寺で信長が死ぬと、彼が築き上げた政治秩序は崩れ去る。

その遺産をめぐる争いは、やがて羽柴秀吉と信長の子・織田信雄との対立を生み、信雄は徳川家康に軍事的な支援を求めた。1584年、両者の対決によって、小牧山はふたたび歴史の中心へと引き戻される。

家康に必要だったのは、信長のかつての居城ではなかった。必要だったのは、要塞だった。

1584年3月、家康は榊原康政に小牧山の改修を命じた。大きな土塁と堀が加えられ、虎口が改められ、それ以前の遺構は埋められるか、新たな防御の中に取り込まれた。小牧市によれば、現在山に残る目立つ土塁や堀の多くは、信長の時代の城ではなく、この1584年の段階のものだという。

ここから、小牧山を解釈するうえで最も興味深い問題のひとつが生まれる。訪れる人が歩いているのは、ひとつの城ではない。この風景の中には、二つの城があるのだ。

山頂付近では、発掘調査が信長の居城と初期の石垣を明らかにしている。山の他の部分では、目に見える土塁や堀が、家康の本陣のことをよりはっきりと物語っている。

一つ目の小牧山は、北へと進む支配者によって築かれた。二つ目は、秀吉を相手に踏みとどまろうとする武将によって固められた。

小牧・長久手の戦いそのものは、単純な最終的勝利をもたらさなかった。家康は、とりわけ長久手の周辺で重要な戦術的勝利を収めたが、秀吉の力は揺るがなかった。1584年の末までに織田信雄は秀吉と和睦し、より大きな争いも収まっていった。

小牧山は、ふたたび捨てられた。

だが、この後の戦いこそが、何が残るのかを決める助けになった。江戸時代、尾張徳川家はこの山を家康ゆかりの尊い地として扱った。立ち入りが制限されたことで、多くの堀や土塁が守られた。皮肉なことに、家康をしのぶ徳川家の記憶が、やがて考古学者たちが信長の最初の城を再発見することになる風景を守ったのである。

ひとつの歴史の層が、別の層を覆い隠していた。そして同時に、それを守ってもいた。

山の読み方を学ぶ

初めて小牧山に登ったとき、こうした区別は何ひとつ分かっていなかった。

目に入ったのは、道、斜面、石、土塁、そして山頂の城の形をした建物だった。どれが信長のもので、どれが家康のものなのか分からなかった。北を見て、なぜ美濃が重要だったのかを理解することもなかった。小牧を岐阜と、岐阜を安土と結びつけて考えることもなかった。

城を訪ねるのは楽しそうだ。ただそれだけの理由で、私は家族と一緒に、息子を抱えて急な山を登っていた。

史跡を「見る」ことと「読む」ことのあいだにある隔たりは、私にとってますます大切なものになっている。

現存する天守は、すぐにそれと分かる何かを与えてくれる。壁には高さがあり、門には形がある。建物は、訪れる人が歩いて通り抜けられる部屋をつくり出す。

城跡は、それとは違うものを求めてくる。

平らにならされた曲輪は、そこに何が建っていたのかを知るまでは、ほとんど意味を持たない。堀は、防御の仕組みと結びつけて考えるまでは、地面のくぼみにしか見えないかもしれない。道は、それをつくるために丘の斜面全体が造り変えられたことを発掘が明かしたとき、より大きな意味を持つ。むき出しになったいくつかの石は、それが信長の築城の発展の初期段階を示すものだと分かったとき、より深い意味を帯びる。

建築がないことさえ、証拠になる。

小牧山は、城跡は空っぽの城ではないことを教えてくれた。構造は今もそこにある。ただ、風景の中へと移っただけなのだ。

振り返ると、この山には二つの始まりがある。

信長にとって、小牧山は尾張の外へと勢力を広げていく新たな段階の始まりだった。考古学が示すように、そこで彼はすでに、軍事建築、居所、人の動き、町、そして政治的権威の関係を試みていた。

私にとって、それは城めぐりが気軽な観光から歴史の探究へと変わっていく、その早い時点だった。

信長は、もはや有名な名前というだけではなくなった。彼の生涯は、地理になった。

清洲は小牧へ。小牧は岐阜へ。岐阜は京都へ、そしてやがて安土へ。家康と秀吉もまた、それらの風景と結びついていった。城を訪れれば訪れるほど、戦国時代は有名な名前と合戦の連なりではなく、実在する場所の網の目のように見えてきた。

小牧山が貴重なのは、まさに単純な物語を拒むからだ。

それは単なる仮の砦でも、小さな安土城でもなかった。信長の台頭のある特定の段階に築かれた、短命ながら野心的な政治の中心だった。前線が動いたときに捨てられた。その構想は、岐阜で異なる条件のもとに手直しされ、やがて安土ではるかに大きな規模で表現された。

そして次の世代が、同じ山をまったく違う種類の戦いのために使った。

初めて小牧山に登ったとき、私はそのどれも読み取ることができなかった。

山は、すでに物語を語っていた。私はただ、その言葉を学ばなければならなかったのだ。

本記事は英語の原文を日本語に翻訳したものです。

出典と注記

本稿は、一般的な通説ではなく、主に地方自治体による考古学調査や保存整備の資料に基づいています。

  1. 1Komaki City Board of Education, materials on the Historic Site of Komakiyama, including site history, excavation reports, preservation planning, and the 1584 Komaki-Nagakute campaign.
  2. 2Gifu City, excavation and interpretation materials for Gifu Castle, including Nobunaga-period summit stonework and the residence complex at the foot of Mount Kinka.
  3. 3Shiga Prefecture, archaeological and preservation materials for the Special Historic Site of Azuchi Castle, including the Otemichi and principal enclosures.
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